どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて5月13日に公開されて以来、順調に成績を伸ばし続けている『シン・ウルトラマン』ですが、6月26日までの45日間で観客動員数が269万人、興行収入はついに40億円を突破しました。
一般的に映画の成績は「10億円を超えればヒット」と言われているので、これはもう(商業的には)”大成功”と言っていいでしょう。
しかも、ウルトラマンの劇場映画で10億円を越えた作品は前例がなく、これまでは2008年に公開された『大決戦!超ウルトラ8兄弟』の興行収入8億3800万円が最高でした。
つまり『シン・ウルトラマン』は、過去のウルトラマン映画の歴代記録まで大幅に塗り替えてしまったのですよ。
一体、なぜここまで大ヒットしたのか?というと、やはり「庵野秀明が脚本や総監修などで作品に深く関わっている」ということが理由の一つではないでしょうか。
『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァンゲリオン』で日本中を熱狂させた庵野さんですから、「今度もきっとすごい作品を見せてくれるに違いない!」と期待して観に行ったファンが大勢いたことは想像に難くありません(まぁ監督は樋口さんなんですけどねw)。
さらに、『シン・ウルトラマン』の企画書に書かれた庵野さんの文章も、さすが「大好きなウルトラマンの映画化」だけあって非常に気合いが入っています(↓)
子供向けではなく、当時観ていた世代をコアターゲットとした、大人になった今こそ観たいウルトラマンの世界を目指す。
違和感なく現代に即した大人向けエンターテインメント、特撮映像だからこそ描ける「夢と現実の共存」を目指す。
そのためには、カタストロフィよりも侵略テーマSF作品としての質と感性を(CP的にも)重視した面白さを目指す。
リアルハード路線、硬質で外連味のある美しい画面で描かれる世界観を描く。
実感のない侵略に対して漫然とした不安を抱える現代の日本人の世相を描く。
そして皆が望み、未だ誰も観たことがない「ウルトラマン」の存在する世界の体験を目指す。
(「シン・ウルトラマン デザインワークス」より)
これを読むと、庵野さんが明らかに「大人の鑑賞に耐えうる優れたSF作品」として『シン・ウルトラマン』を作ろうとしていたことが分かりますね。では、なぜ庵野さんはこれほど「大人向けの特撮映画」にこだわっていたのでしょうか?
今から10年以上前、庵野さんがとある雑誌で対談した際、「海外のヒーロー映画やモンスター映画は大人向けの一般映画として成立しているが、日本の特撮映画はほとんどが子供向け」「そろそろ大人向けのエポックな特撮ものを作りたい」などとコメント。
そして樋口真嗣さんも『ガメラ3 邪神覚醒』の公開直後、キネマ旬報のインタビューで以下のように語っていました。
今回の『ガメラ3』で目指したものは”当たる映画”です。今まで怪獣映画に興味を持っていなかった女の子たちが観に来るような映画にしようと。『タイタニック』を観た時に感じてしまったんです。個人的にはパニック映画じゃなかったという辺りが不満だったんだけど、そういう不満な要素が実はお客さんを集めていた。オレは納得いかないけど、「みんな観に来てるじゃん」っていう。
極論しちゃうと、キネ旬を読んでるような映画好きの人たちだけが劇場に集まっても大ヒットにならないんですよ。この雑誌を読んでも何がなんだかさっぱり分からない(映画に興味がない)ような人たちが映画館に集まってこそ、映画はヒットするんです。映画的記憶というものがない、年に1回か2回しか映画館に行かないような人たちでさえ観に行きたいと思うような映画を作らないと、商業としての映画は成功と言えない。
(「キネマ旬報 1999年3月下旬号」より)
このように、当時の庵野さんと樋口さんは日本の怪獣映画や特撮映画が置かれている状況に不満を感じ、「この状況を打破するには、一般の人たちが観に来てくれるような面白い怪獣映画を作るしかない」と考えていたようです。
そして、2016年に『シン・ゴジラ』が誕生!長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高橋一生ら豪華なキャストが集結し、従来の怪獣映画とは一線を画したリアリティ溢れる描写の数々も話題となり、82億円を超える大ヒットを記録しました。これぞまさに「大人の鑑賞に耐えうる怪獣映画」と言えるでしょう。
そんな『シン・ゴジラ』と同様に、「一般映画」としての枠組みを目指して企画されたヒーロー映画が『シン・ウルトラマン』だったのですよ(以下、庵野さんのコメントから引用↓)。
企画としては、『シン・ゴジラ』と同じく「一般映画」としての枠組みを目指しました。「ウルトラマン」シリーズの劇場映画はこれまで興収10億を超えた前例がなく、今までの路線の範疇だと、製作規模が通常枠を超えないと成立が難しい本作のような企画だとリクープの可能性がかなり低く、厳しいと思います。なので非常に高いハードルですが、ウルトラマンにさほど興味がなく、名前を知っているだけの人にも興行的に届く可能性を上げた企画内容と脚本を目指しました。
(「シン・ウルトラマン デザインワークス」より)
ここで庵野さんが述べているのは、「ウルトラマンのような映画を作るには通常よりも巨額の制作費が必要だ」「しかし今まで通りの子供向け路線では回収(リクープ)が難しい」「なので、ウルトラマンに興味がない一般の人たちも観に来るような映画を目指した」ということです。
ただし問題なのは、『ゴジラ』って元々1954年に公開されたオリジナル版の時からすでに「一般の人たちを対象にした映画」だったんですよね(作り手側も「リアリズムを追求し、反戦・反核のメッセージを込めた」などと証言)。
だから『シン・ゴジラ』を作る際は、内容を現代的にブラッシュアップしつつ、ポリティカル・フィクションの要素を強化していけばよかったわけです(実際はもっと複雑な手順で企画・制作していますが)。
しかし『ウルトラマン』の場合は、元々がテレビで放映していた子供向けの特撮ヒーロー番組なので、そのイメージを引き継ぎながら内容をリアルに作り変えること自体が非常に難しいんですよ。
そこで庵野さんはどうしたか?なんとウルトラマンの世界観を守るために、敢えてリアリティのレベルを下げたのです。
例えば、映画序盤の「ネロンガ戦」において、逃げ遅れた子供を発見した神永(斎藤工)は、「速やかに自分が保護します」と言って急に対策本部から出て行ってしまいますが、普通に考えるとおかしいんですよね。
その直前のシーンで「現時点をもって指揮権は我々に移行しました」と田村班長(西島秀俊)が言っているように、禍特対の仕事は作戦立案や現況分析を行いつつ自衛隊へ適切な指示を出すことですから、神永が自ら救助に向かう必要はないはずです。
先日、公式が『シン・ウルトラマン』の本編冒頭映像10分33秒を期間限定で公開した際も、「なんで神永が行くんだよ?」「自衛隊に行かせりゃいいじゃん」みたいな意見が散見されたので、あのシーンに違和感を感じた人も大勢いたんじゃないでしょうか?
たぶん、序盤の禍特対のシーンで「専門的なセリフを早口で喋る」「細かいカット割り」「多用される実相寺アングル」などを見て、「これは『シン・ゴジラ』みたいな映画だな」と勘違いした人が多かったのでしょう。
その直後に神永の「リアルに考えたらおかしい行動」が出て来たため、「オイちょっと待て!」となったのかもしれません。
まぁ「あの時、自衛隊はネロンガの対応で忙しかったから、手の空いていた神永が行ったのでは?」などと解釈する人もいたようですが、だとしても”段取り”がおかしいんですよ。
仮に自衛隊がネロンガの対応で動けなかったとしても、禍特対のリーダーは田村班長なのでイレギュラーな任務を行う際はまず班長に確認し、班長から神永に「行ってくれ」と指示を出す…という流れが組織のリアルな描き方でしょう。
にもかかわらず、神永は真っ先に「自分が行きます!」と言って子供の救助に向かい、班長も彼の行動を全く咎めようとしません(そもそも「自衛隊が動けない」ということを示すような描写も全く無い)。一体なぜ?
実はこれ、オリジナルのウルトラマンを踏襲してるんですね。「科特隊(科学特捜隊)」は今の基準で考えると非常に緩~い組織で、イデ隊員が突拍子もない作戦を思い付いても「よし、やってみよう」とあっさり隊長が許可したり、ハヤタ隊員は任務中に勝手に現場を離れてウルトラマンに変身したり(これはしょうがないけどw)、とにかくメチャクチャ緩い組織なんですよ。
まぁ1966年当時の特撮テレビドラマではこれが普通だったのでしょうが、庵野さんはこのような”緩めの世界観”を『シン・ウルトラマン』で再現したかったらしく、「政府系組織内外の設定等も『シン・ゴジラ』に比べてかなりフィクション寄りにしている」と説明していました。
これこそが、まさに『シン・ウルトラマン』の大きな特徴だと思います。
もし『シン・ゴジラ』みたいなガチガチのポリティカル・フィクション路線でウルトラマンを描いていたら、禍特対や自衛隊や政府の対応をリアルに描写しすぎて、肝心のウルトラマンの活躍がスポイルされていたかもしれません(それはそれで面白い映画になったでしょうけど)。
でも、それは庵野さんが望んだウルトラマンじゃないんですよね。あくまでも「ウルトラマンはこうであって欲しい」という庵野さんの理想を形にしたものが『シン・ウルトラマン』なんですよ。
だから、子供を見つけた神永が「自分が行きます!」と言って真っ先に飛び出して行ったのも、ウルトラマン的には正しい描写なんですが、とは言え「作戦立案担当のお前が直接動くなよ!」というツッコミが観客から出るぐらい不自然な行動であることも否定できません。
結果、オリジナル版の”緩い雰囲気”やヒーローのカッコよさを再現したいが、あまりやりすぎるとリアリティがなくなってしまうというジレンマに…。この辺のバランス調整には庵野さんも悩んでいたようで、以下のように語っていました。
映画の世界観に制作側が嘘をつく範囲というか、フィクションをどこまで描くかということも含まれていると思います。そこのバランス感覚が重要なのかなと。そこの判断をするのも監督の仕事なのかなと。意図してリアルから離している描写が基本ですが、間違ってしまっている箇所もあるかと思います。
(「シン・ウルトラマン デザインワークス」より)
つまり、「基本的にはオリジナルのウルトラマンに準じてわざとリアリティを逸脱しているが、そのバランスを間違えている箇所もある」と認めちゃってるんですよね(他にも『シン・ゴジラ』に比べてフィクションの度合いを強めに設定しているシーンがいくつか見受けられ、そういう部分が賛否両論の一因なのかもしれません)。
しかしながら、オリジナルの雰囲気やカッコよさを意識しつつ、現代風のアレンジも加えるというアプローチの仕方はヒーロー映画を作る上で必要不可欠と思われ、その上でリアルとフィクションのバランス配分をギリギリまで見極めたからこそ、『シン・ウルトラマン』は多くのファンから高く評価されたのではないでしょうか。
特に「子供たちも喜んで観ていた」という話を聞くと、「ヒーローがカッコよく活躍する姿を何よりも優先し、必要以上にリアルにはしない」という庵野さんの判断は正しかったと思います。