どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて、いよいよ昨日から全国の映画館で『シン・ウルトラマン』の上映が始まりました。脚本・製作・企画・総監修:庵野秀明、監督:樋口真嗣という『シン・ゴジラ』コンビが「今度はどんな世界を見せてくれるんだろう?」と待ち望んでいた人も多いのではないでしょうか。
そんなウルトラマンに関して…まぁ割と有名な話ですけど、庵野さんは学生時代にも自主制作でウルトラマンの映画を作ってるんですよね。タイトルは『帰ってきたウルトラマンマットアロー1号発進命令』!
題名を見ると「TVで放映していた『帰ってきたウルトラマン』のオマージュ?」って感じですが、それだけではありません。実は、『マットアロー1号発進命令』の前に2本の自主制作映像を撮っていたのです。一体なぜそんなにウルトラマンを?
というわけで本日は、『シン・ウルトラマン』の公開を記念して庵野さんが過去に作ってきたウルトラマン映像作品について解説してみますよ。
「小学校1年生の時に初めて『ウルトラマン』を観て衝撃を受けた」「銀色の巨人が街に立っているという世界がもの凄いインパクトだった」と語る庵野さんは、幼い頃からウルトラマンに強い憧れを抱いていたらしい。
やがて8ミリカメラを手に入れた庵野さんは、大阪芸術大学に入ると念願だったウルトラマンの映像化に着手。ちょうど「映像計画学科Ⅰ」の講義で「8ミリのCMフィルムを制作せよ」という課題が出たため、友人の山賀博之さんを誘ってウルトラマンを作り始めたのです。
まず課題のCMの方は、30秒程度の短いものだったのでさっさと片付け、「そのCMに付くテレビ番組」という形でウルトラマンの本編を作ることになりました。
ただし制作体制はごく小規模で、小道具として用意したものは胸につけるカラータイマーのみ。これは爪楊枝入れの蓋にセロハンを貼ってタミヤの点滅回路を仕込んだだけの簡単なものだったそうです。
当然ながら製作費も少なく、このカラータイマーの他は8ミリのフィルム代と合成用の写真代だけで、合計8000円。撮影場所は、庵野さんと山賀さんが当時住んでいた下宿の裏にある空き地を利用し、撮影日数はわずか1週間でした。
その空き地で、大阪芸術大学の体操服を着て「怪獣」役を演じる友人と、同じくウインドブレーカーを着てカラータイマーを付けただけの庵野秀明さんが格闘するわけですから、どう見ても「学生がプロレスごっこで遊んでいる」ようにしか見えません。
しかし、試写会では大ウケ!庵野さんのこだわりでカメラアングルがやたらとカッコよく決まっており、しかも二重露光で”スペシウム光線”や”八つ裂き光輪”まで再現しているのですから、同級生たちは「こりゃすごい!」と大絶賛だったそうです。
さらに翌年は「ファースト・ピクチャーズ・ショー」という上映会が開かれ、これは同学年の人だけでなく他の学生も自由に鑑賞できる大掛かりな催しだったため、庵野さんも「みんなをアッと言わせてやろう」とはりきっていました(この時点では何を作るか未定)。
ところが、ちょうど「DAICONⅢオープニング・アニメーション」の作業と制作時期が重なってしまい、なかなか時間が取れません。そこで庵野さんは「よし、もう一度ウルトラマンを作るか!」と考えたようです。
ただし、前にやったことと全く同じでは面白くないので、撮影場所を空き地から下宿の部屋へ変更し、そこにダンボールで作ったビルを並べて格闘シーンを撮る…という方式になりました。
さらに赤井孝美さんがビニール袋や紙で怪獣の頭部マスクを作り、それを被って格闘シーンを撮影(なお、首から下はドテラとジーパン)。ウルトラマン役の庵野さんはジャージの上下にカラータイマーのみという前作と同じスタイルですが、ちょっとずつ色んな部分が豪華になっているのでタイトルは『ウルトラマンDX(デラックス)』に決定。
この『ウルトラマンDX』が「ファースト・ピクチャーズ・ショー」で上映されると、またしても会場は大ウケ!なんと「努力賞」までもらったそうです(ちなみに賞品は「物凄く趣味の悪い色の1畳半のカーペット」で、山賀さんはそれを担いで下宿まで帰ったらしいw)。
そして、いよいよ満を持して『帰ってきたウルトラマンマットアロー1号発進命令』を作ることになりました。これは『ウルトラマンDX』の続編、つまり単なるTV番組のパロディじゃなくて、「庵野さんのウルトラマンが帰ってきた」という意味だから『帰ってきたウルトラマン』なんですね。
では、どういう経緯で庵野版『帰ってきたウルトラマン』の制作が決まったかと言うと…
まず、1981年に大阪で第20回日本SF大会が開催され、庵野さんたちは自主制作アニメ「DAICON 3」を作って上映しました(これも大ウケ)。この大会は岡田斗司夫さんや武田康廣さんと地元の学生ボランティアによって運営されたんですが、終わったあと「解散するのはもったいない」「この経験やスキルを次に活かそう」との声が出たそうです。
そこで集まったメンバーで「DAICON FILM(ダイコンフィルム)」という組織を立ち上げ、スタッフの育成及び次回のSF大会に向けて3本の自主制作映画を作ることになりました。そのうちの1本が『帰ってきたウルトラマン』だったのです(他の2本は『愛國戰隊大日本』と『快傑のーてんき』)。
監督:庵野秀明、脚本:岡田斗司夫、特技監督:赤井孝美、撮影協力:山賀博之、プロデューサー:武田康廣など、今見ると錚々たるスタッフ編成ですが、当時は全員無名の若者たちでした。そんな彼らが作ろうとしたウルトラマンは…
あらすじ:平和な街ヒラツネ市に隕石が落下、その中から巨大怪獣バグジュエルが現れ住民を恐怖に陥れる。報告を受けた怪獣攻撃隊MATはマットアロー1号を発進させ、怪獣を攻撃するものの効果なし。やがて地球防衛軍参謀本部から「熱核兵器を使用せよ」との命令が下されるが、ハヤカワ隊員は「まだ生存者がいるかもしれない」と猛反対。怪獣による被害が刻々と拡大する中、果たして彼らはどんな決断を下すのか…?
恐ろしくシリアスなストーリーで、とても下宿の部屋でプロレスごっこに興じていた自主映画の続編とは思えませんが(笑)、当時の岡田さんや庵野さんがいかに本気でこの作品に取り組もうとしていたかが分かるでしょう。
しかし、そのために庵野さんたちは大変な苦労を強いられることになってしまったのです…。
当初、『帰ってきたウルトラマン』は東京で開催される第21回日本SF大会(TOKON 8)で上映する予定でした。TOKON 8の開催は1982年の8月なので、当然それまでに完成させなければなりません。
ところが、82年の4月に企画が立ち上がり、岡田さんが脚本を書き始め、その間にキャストの選定、MATアローなどのメカデザイン、制服やヘルメットや怪獣の設定及びデザインを考え、さらに出来上がった脚本をもとに庵野さんが絵コンテを描き…。
ということをやっていたら、なんとクランクインが7月になってしまいました。大急ぎで撮影に取り掛かるものの、セット作りに手間取ったり、ミニチュアの設営に時間がかかったり、準備不足も重なってなかなか作業が進みません。
おまけに、庵野さんがライティングやカメラアングルにこだわりすぎて大量のリテイクが発生!ふと気付けば8月が目前に迫っており、その時点でもはやTOKON 8での上映は断念せざるを得ませんでした(なお、同時進行で制作していた『愛國戰隊大日本』の方は何とか間に合った)。
その後、10月下旬からウルトラマンの撮影を再開したものの、今度は「撮影場所がない」という問題に直面。クライマックスの戦闘シーンは、ウルトラマンと怪獣の巨大感をリアルに表現するために広いロケ地が必要ですが、残念ながら大阪近辺には適した場所が見つからなかったのです。
そこで庵野さんたちは約2週間におよぶ鳥取県米子市での長期ロケを敢行!大阪から比較的近く、障害物が何もない広大な空き地があり、さらに特技監督の赤井孝美さんの地元なので「スタッフが無料で実家に泊めてもらえる」などの利点が決め手になったようです。
こうして11月末に米子へ到着した庵野さんたちは、すぐに撮影を開始しました。ところが、運悪く数年に一度の異常寒波に見舞われ、雪が降りしきる中で寒さに震えながらウルトラマンと怪獣の格闘シーンを撮るはめになってしまったのです。
おまけに、時間をかけて設置したミニチュアセットが強風で吹き飛ばされるなど、劣悪な環境にスタッフの疲労もどんどん蓄積し、ようやく撮影が終わって大阪へ帰ろうとしたら大雪で運搬用トラックが足止めを食らうというアクシデントまで勃発!まさに踏んだり蹴ったりです。
こんなに苦労してウルトラマンを作り続けた庵野さんですが、まだまだ撮影は終わりません。大阪に戻ってからは残っていたミニチュアシーンを撮るために、スタッフのマンションに泊まり込んだり、淀川の土手にミニチュアを並べたり、延々と作業に没頭する日々。ふと気づけばすでに年末になっていました。
ちなみに、『帰ってきたウルトラマン』に出てくるメカやセットは全て紙(ボール紙や工作用紙)で作られてるんですが、そのクオリティは恐ろしいほど高く、太陽光の下で撮影した数々のミニチュアモデルは「紙に見えない!」と当時の特撮ファンの度肝を抜いたそうです。
さて、そんな作業を繰り返しているうちにやがて正月を迎え、さすがの庵野さんも実家に帰省したんですけど、ウルトラマンの作業が遅れているため、正月休み返上で編集作業をすることに…。
ところが実家に編集用のスプライサーがなく(1トラックの編集機しかなかった)、しかも正月は店が休みでテープも買えなかったため、「これじゃ出来ないや」と遊び惚けていたらしい。
そうしたら、正月明けに喫茶店に呼び出されて岡田さんたちからメッチャ怒られた挙句、なんと「仕上げは俺たちがやるから、庵野はもうこの企画から降りてくれ」と言われてしまったのです。えええ…。
これに庵野さんは大変なショックを受けてそのまま動けなくなり、7時間後に連絡をもらった岡田さんが喫茶店に戻ってみたら、庵野さんが同じポーズのままずっと座り続けていたらしい(以下、庵野さんのインタビューより引用)。
ショックでしたからね。要するに、まさか(自分の作品が)取り上げられるとは思わなかったんです。それで、ああ仲間にとって自分の存在はどうでも良かったんだって。結局、連絡しなかったというところが問題だったんですね。イカンですよね。
(中略)
一番ショックだったのは、まあ1年近くそれしかやっていなかった自分の人生みたいなものが、簡単に取り上げられてしまったということですね。自分はその程度の存在だったのかと思い知りました。
もともと責任感薄いんですよ。怠け者だし、つくづく監督には向かないと思いました。でもその時は自己嫌悪より、簡単に捨てられたショックの方が大きくて、そんなグループはもう嫌だと、東京に『マクロス』を手伝いに行ったんです。
(「庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン」より)
大好きなウルトラマンを取り上げられ、ショックのあまり呆然としたまま何時間も動けなくなってしまった庵野さん。しかしその後、赤井孝美さんが作業を引き継ぎ、光学合成やリテイク分のカットを全て撮り終え、1月中旬に無事クランクアップを迎えました。
そして編集作業に入り、アフレコや効果音、BGMの収録なども粛々と進み、ついに完成!こうして1982年4月に企画が立ち上がった『帰ってきたウルトラマン』は、約1年後の83年3月にようやく公開されたのです。
それを観た時の気持ちを、庵野さんは以下のように語っていました。
赤井が完成させてくれたフィルムを上映会で観た時は、号泣しましたね。監督を降ろされた時の慰めと励まし、そしてフィルムを完成させてくれたこと等、言葉にならないですね。赤井には感謝程度じゃすまないです。結局、またグループにも戻ったし。
(「庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン」より)
このような紆余曲折を乗り越えて、やっと完成した『帰ってきたウルトラマン』は、紙で作ったとは思えないほど緻密でリアルなミニチュア特撮、30分に満たない短い尺の中でシリアスなドラマを見事に描き切ったストーリー、そして素顔丸出しで怪獣と戦う庵野秀明など、見どころ満載の作品に仕上がりました。
当時、「こんな自主制作映画は見たことがない!」と特撮ファンの間で話題になりましたが、今観てもその魅力は全く色褪せていません。まさに、最新作『シン・ウルトラマン』にも通じる庵野監督の”ウルトラマン愛”がたっぷり詰まった傑作と言えるでしょう。