■あらすじ『この世には、人間の世界とは別にもう一つ、バケモノの世界があるという。ある日、バケモノ・熊徹(役所広司)に出会った少年・蓮(宮崎あおい)は強さを求め、バケモノの世界へ行くことを決意した。蓮は熊徹の弟子になり、”九太”という新しい名前を授けられる。最初はいがみ合っているものの、やがて修業を通じて互いに成長していく2人。しかし、九太(染谷将太)が17歳になったある日、偶然にも元いた世界へ戻ってしまう。そこで出会った少女・楓(広瀬すず)の導きによって、彼は進むべき未来を模索し始めるのだった…。大泉洋、リリー・フランキー、津川雅彦など、豪華キャストが集結!「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が贈る、愛と感動の冒険ファンタジー!』
※この記事にはネタバレが含まれています。まだ映画を観ていない人はご注意ください。
本日、金曜ロードSHOW!にて細田守監督最新作『バケモノの子』が放送されます。2015年の夏に劇場公開され、日本中で大ヒットした作品が、早くも地上波で放送されるということで、楽しみにしている人も大勢いるんじゃないでしょうか。
だがしかし!
本作が公開された当時、その内容に関して世間の評価は賛否両論真っ二つに分かれました。”賛の評価”としては、「幅広い層に向けた王道のファンタジーが良かった」「ダイナミックなアクションがカッコいい」「父と子(師弟関係)のドラマが感動的」など。
一方、”否の評価”としては、「前半は良かったが後半はグダグダ」「ストーリーが支離滅裂で意味不明すぎる」「ヒロインに共感できない」などの意見が目立っていたようです。う〜ん、これほどの人気作品でも、観た人の感想は大きく異なるものなんですねえ。
ちなみに、公開当時は僕も劇場へ観に行ったんですが……どちらかと言えば”否の評価”の方に同意できるかな〜、って感じでした。いや、もちろん良い部分もたくさんあって、「全部がダメ」ということではありません。ただ、話の展開に不自然な場面が見受けられたり、モヤモヤする部分が多くて上手く世界に入り込めなかったんですよ。
そんなわけで、本日のレビューは「かなり批判的な目線」になってしまいました。もし、この映画を好きな人が読んだら気分を害するかもしれません。そうなったら非常に申し訳ないので、『バケモノの子』のファンの人は以下の文章を読まずに、このままそっとブラウザを閉じることをお勧めします。何卒ご了承くださいませm(_ _)m
さて、僕が本作を観て感じたことなんですけど、他の人の意見にもあるように、前半は良かったんですよ。主人公の蓮が家を飛び出し、渋谷の街を彷徨っている時、熊鉄たちに出会って”渋天街”へ迷い込み、9歳から17歳までひたすら修業に励む。そんな異世界での8年間がとても面白くて、「楽しい映画だなあ」と思いながら観ていました。
ところが、青年になった九太が再び人間界へ戻ってくる後半になってから、急激に面白さが失速するんです。いったいどうしてなのでしょうか?その理由を検証してみました。
●人間界へ戻った九太の行動に違和感
まず、この物語の主人公は幼い頃に異世界へ迷い込み、そのまま8年間そこで暮らすことになります。そして17歳になったある日、偶然にも人間界へ戻ってきます。普通なら、8年ぶりの故郷がどんな風になっているのか気になってあちこち見て回るとか、あるいは「ここに自分の居場所は無い」と判断して元の異世界に戻るとか。
そういう心境になると思うのですが、なぜかいきなり図書館へ行って本を読み始めるのです。いやいや、おかしくない?仮に「渋天街には本がないから、久しぶりに本を読みたくなった」としても、その前に本を読みたそうにしている様子など、全く描かれてないんですよ。にもかかわらず、故郷に戻っていきなり図書館って、展開が唐突すぎるでしょ?
せめて「主人公が無類の本好き」みたいな設定にしておくとか、何かのきっかけで本を読みたくなったとか、図書館へ行くための動機をきちんと示してくれないと、キャラクターの行動に必然性が無さすぎて、観ている方も納得できません。ここはちょっと違和感がありましたねえ。
●図書館へ行った理由
実はこのシーン、小説版を読むと九太が図書館へ行った理由が詳しく書かれているのです。それによると、「久しぶりに人間界へ戻った九太は、街中に溢れるおびただしい数の文字を見て吐き気に襲われた。文字を強制的に浴びるのはもうたくさんだ。どうせなら自分の見知った文字がいい。そうすれば、子供の頃の感覚も少しは取り戻せるかもしれない」と考え、図書館へ行って本を探していた、ということらしい。
でも映画では、こういう経緯が全く描かれていないし、そもそも理屈として明らかにおかしいんですよね。大量の文字を見て吐き気に襲われた人が、「よし、図書館へ行って本を読もう!」って心境になりますか?むしろ「本なんて読みたくない!」ってなるんじゃないの?作り手側は、主人公をどうしても図書館へ行かせたかったようですが、その手順が強引過ぎて、キャラクターの思考や行動がムチャクチャになってるよ!
●『白鯨』を選んだのは偶然だった
そして九太は、図書館でハーマン・メルヴィルの『白鯨』を手に取ります。なぜこの本を選んだのかというと、子供の頃に読んでいた思い出の本だから……じゃないんですよ!実は、彼が昔読んでいた本は児童版で、『白クジラ』という別のタイトルだったんですね。
そのため、九太は表紙の漢字が読めず、側にいた女の子に「これ、なんて読む?」と尋ねているのです。そして「くじら」と教えてもらって初めて「ああ、くじらか」と分かる。つまり、『白鯨』というタイトルの本を探して手に取ったんじゃなくて、たまたま手に取った本が『白鯨』だったのですよ。
だったら、まず児童書のコーナーへ行って、「思い出の本を探す」という流れにした方が、心理的にもドラマ的にも自然だったんじゃないかなあ(なぜ世界文学全集を選ぶ?)。これじゃ、「主人公とヒロイン(楓)が出会う」というきっかけを作るための、単なるご都合主義にしか見えません。
ちなみにこの『白鯨』という小説は、楓(かえで)の説明によれば「主人公が自分の片足を奪った憎い鯨に復讐する物語だけど、主人公は鯨と戦っているようで、実は自分自身と戦っている。つまり鯨とは自分を映す鏡ではないか?」とのことで、クライマックスのバトルシーンを暗示させています(鯨に変身した一郎彦=自身の心の闇)。
なので、非常に重要なアイテムではあるんですが、終盤の戦闘シーンでたまたま路上に落とした『白鯨』を一郎彦が拾い上げ、「クジラ…」とつぶやいたら巨大な鯨が出現するという、あまりにも脈絡のない展開に首を傾げざるを得ませんでした(もし違う本だったら違うものが巨大化したの?)。
●一郎彦はなぜ「鯨」を読むことができたのか?
その「『白鯨』を一郎彦が拾い上げるシーン」にもモヤモヤがありまして…。バケモノの世界では、「思想」は尊ぶが「文字」は軽んじ斥ける習慣がある、みたいな設定になっています。過去の賢人も「生きておる智慧が、文字などという死物で書き留められるわけがない」と教えているため、ほとんどのバケモノは読み書きができません。
しかも一郎彦は、赤ん坊の頃に拾われてずっとバケモノの世界で暮らしていたのです。にもかかわらず、9歳の頃まで人間界に住んでいた九太でさえ読めなかった「鯨」という文字を、どうして読むことができたのか?と映画を観た多くの観客から疑問が噴出した模様。
実は、この答えも小説版に書いてあるんですよ。渋天街にも一応”学校”があり、最低限の読み書きを学ぶことが出来ると。さらに、一郎彦のような優等生はもっと特別な学習を受けさせてもらえるため、人間界の少年とほぼ変わらないぐらいの知識を持っているらしい。
だから一郎彦は、九太たちが落とした本を拾ってすぐ「鯨」という文字を読むことが出来た、というわけです。ただ、映画の中ではそこまで詳しく描写していないので、このシーンを観た観客は「なんでだよ?」「おかしいじゃないか!」と疑問に感じてしまったのでしょう。
●ヒロインを助ける主人公がありがち
九太と楓が図書館で出会った後は、「不良に絡まれているヒロインを主人公が助ける」という、今時、少女漫画でもこんなベタな展開はないだろうと思うような、よくある定番シチュエーションが飛び出します。
まあ、それはいいんですが、「図書館にあんなヤツいる?」とか「そもそもあいつら何のために図書館へ来てたんだ?」とか、不良集団の存在自体に現実味がなさすぎてガッカリ。
これって要するに「主人公とヒロインを親密にさせるきっかけ」を作りたいだけで、彼らを”単なるコマ”としか見なしていないんですね。だから、「ヒロインが不良に絡まれる」というテンプレート通りの展開にしかならないし、目新しさも工夫も感じられないのですよ。
●記号的なキャラ
こういう違和感は他にもあって、例えば冒頭に登場する九太の親族の人たちは、ひたすら「嫌な人間」として描かれ、物語が終わってからも彼らがどうなったのか全く情報が出て来ません。しかも意図的に顔を隠され、個性のないロボットのような存在と化しています。
これも、いわゆる「子供の気持ちを理解しようとしない身勝手な大人たち」という定型表現であり、この映画に登場する”悪意ある集団”が極めて記号的に描かれていることが分かります。でも、それって結局「ストーリーを進行させるための単なるコマ」としてキャラクターを扱っているだけだから、映画全体がもの凄く作為的に見えてしまうんですよ。
「ああ、嫌味な親戚が現れたから、このあと主人公が反抗して家を飛び出すんだな」とか、「ああ、悪そうな連中が出て来たから、このあとヒロインが絡まれて主人公が助けるんだな」みたいな感じで、ドラマの段取りが全部見えちゃうんです。
「所詮アニメーションなんて作為のカタマリだろ」と言われれば、確かにその通りではあるんですけど、それを感じさせないように出来るだけ自然な流れで見せることが監督の手腕なのに、思い切り作為を感じさせてどーすんだ、と。この辺はもう少し工夫して欲しかったですねえ。
●多々良や百秋坊は仕事をしてるの?
「キャラクターに対する違和感」という点では、多々良や百秋坊も気になりました。熊徹と暮らすことになった九太がよっぽど気になるのか、彼の側から決して離れようとせず、常に熊徹の家にやって来て見守っているのです。
それどころか、宗師さまの指示で全国各地の賢者に会いに行くことになった時も、「俺たちも一緒に付いて行ってやるよ」みたいな感じで、わざわざ諸国巡礼の旅に同行しているのですよ。お前ら、仕事はしてないのか?と(笑)。まあ、その辺はあまり真剣に考えても仕方がないのかもしれませんが。
実は、熊徹・多々良・百秋坊の三人の関係性は、トム・セレックやスティーブ・グッテンバーグが主演した1987年のコメディ映画『スリーメン&ベイビー』の影響を受けているのだそうです。細田監督によると「最初から想定していたわけではなく、作っているうちにだんだん『スリーメン&ベイビー』みたいになってきた」とのこと。
『スリーメン&ベイビー』の内容は、「ニューヨークで優雅に独身生活を満喫していた3人の男たちが、ある日、捨てられていた赤ん坊を見つけたことで悪戦苦闘するはめになる」という、子育てコメディです。『バケモノの子』では、熊徹・多々良・百秋坊の三人が九太を育てる保護者みたいな役割になっていて、「確かに似てるかも」と感じました。
ちなみに、多々良や百秋坊は昭和の邦画界で活躍した俳優を元に作られたキャラクターで、『七人の侍』に出演した多々良純と千秋実がモデルだそうです(熊徹のモデルは三船敏郎)。
なお、細田守監督は黒澤明の映画が大好きで、『バケモノの子』の打ち合わせをする際は、スタッフと一緒に『七人の侍』や『用心棒』や『羅生門』など、過去の黒澤作品を観て参考にしたらしい。
その他、「師匠のもとで弟子が修業する」という部分は、ジャッキー・チェンの『スネーキーモンキー蛇拳』から影響を受けているとか、カンフー映画のオマージュもいくつか見受けられました。特に「熊徹の足運びをマネして九太が動きをマスターしていく場面」は、完全に『スネーキーモンキー蛇拳』をリスペクトしているそうです。
細田監督曰く、「あれを入れないと、『蛇拳』を観てこの映画を作ったということが伝わらないので、実は無理やり入れました(笑)」とのこと。そんなに『蛇拳』にこだわってたのか(^_^;)
●熊徹が贔屓(ひいき)されている
これは映画全般に言えることなんですが、どうもウサギの宗師さまが熊徹を特別扱いしすぎているような…。例えば、次期宗師の資格は「強さ・品格・素行とも一流」という条件なのに、熊徹はどう見ても”強さ”以外の条件に当てはまっていません。にもかかわらず、候補者が熊徹と猪王山の二人だけっていうのは、その時点でもう猪王山で決まりじゃないの?と(笑)。
「品格や素行を直した上で、熊徹の名前が候補に上がる」というのならまだ分かるんですよ。でも、今の状態では候補者になることすら出来ないはずです(条件を満たしてないんだから)。これでは、「あのウサギ野郎が裏からこっそり手を回して熊徹を候補者に加えさせたのでは…」と疑わざるを得ません。
それから後半、宗師の座をかけて猪王山と戦う場面(この時点でもまだ熊徹の素行は悪いまま)。猪王山の猛攻撃を受け、熊徹は意識を失って倒れます。そして審判がカウントを取り始めるんですが、「八つ」まで数えた直後に九太が現れ、そこでカウントが止まるんですよ。
さらに「なにやってんだバカ野郎!さっさと立て!」という怒鳴り声を聞いて熊徹が目を覚まし、「うるせえ!勝手に出て行ったくせによくもノコノコ顔を出せるな!」と言い争いが始まる。その間、試合は中断され、審判も周りの観客も文句を言わずに見てるだけ。これってズルくないですか?
その後、試合が再開されると、今度は猪王山が熊徹のパンチを食らって倒れます。すると、審判は全く滞りなくカウントを数え終わり、あっさりと猪王山が負けてしまうのですよ。ええええ?なんで猪王山の時には誰も助けようとしないの?熊徹ばっかり贔屓すんなよ!
まあ、ルールでは「十拍の間、失神していた者は負け」となっているので、熊徹が自力で10カウント以内に意識を取り戻していたなら負けではないのですが…。しかし、そうだとしても猪王山が気の毒でなりません。そりゃあ一郎彦が怒るはずだよ(笑)。なお、このシーンの疑問点については、下記のブログで詳しく検証されていたので参考までに↓
・検証!?「バケモノの子」における「疑惑の9カウント」問題(ネタバレ)
●ヒロインがウザい
今回、意外に多かったのがヒロインに対する批判だそうです。なかなか珍しいんじゃないですかね、ここまで嫌われてるヒロインって(笑)。まあ、個人的には別に嫌いじゃなかったんですけど、ある特定のシーンで「なんだこいつ?」と思ってしまいました。
それは暴走した一郎彦が巨大なクジラと化して九太を攻撃する場面。そこへいきなり楓が飛び出して、以下のキメ台詞を言い放つんです。
「あなたは何がしたいの?憎い相手をズタズタに引き裂きたい?踏みにじって、力で押さえつけて、満足する?あなたはそんな姿をしているけど、報復に取りつかれた人間の闇そのものよ!誰だってみんな等しく闇を持ってる。蓮くんだって抱えてる。私だって!…私だって、抱えたまま今も一生懸命もがいてる。だから、簡単に闇に飲み込まれたあなたなんかに、蓮くんが負けるわけない。私たちが負けるわけないんだから!」
一瞬、もの凄くカッコいいセリフみたいに聞こえますが、良く考えたら楓は一郎彦のことをほとんど何も知らないはずだし、そもそもこの日まで会ったこともないわけですよ。それなのに、さも自分は何でも知ってるわよ的な目線で説教を垂れるという勘違いぶりにモヤモヤ。せっかくのキメ台詞も全く心に響きません。それ故に、多くの観客から反感を買ってしまったのでしょう。
実はこのシーンの前に、九太がお父さんと再会して「一緒に暮らそうか、どうしようか」と悩む場面があるんですね。その時、お父さんが「少しずつやり直そう。今までの辛いことは全部忘れて…」と語りかけるんですが、この言葉に九太が激怒。
「なんで辛いって決め付けるんだよ?父さんは俺の何を知ってるんだ?何も知らないくせに、知ったようなことを言うなよ!」と猛反発します。これと同じく、赤の他人の楓に一方的な決め付けで説教を食らった一郎彦も、「お前に俺の何が分かるんだよ!」と言い返したい心境だったんじゃないかなあ(笑)。
●父親はなぜ失踪したのか?
そのお父さんなんですけど、なぜ幼い九太と母親を置いて家を出て行ってしまったのでしょうか?映画の冒頭で、親戚の人たちがマンションにやって来た時、九太は「父さんはなんで来ないの?」と尋ねています。その後、「お前らも、父さんも、全部大嫌いだ!」と叫んで部屋を飛び出しました。どうやら、自分たちを置いて出て行ったお父さんを憎んでいる様子。
なので、もしかして「ギャンブル好きのダメ親父が多額の借金を作った挙句、若い女と浮気して行方不明に…」みたいな、割と良くあるパターンなのか?と思いきや、人間界へ戻った九太が捜し当てた実の父は、優しくて真面目そうな雰囲気で、どう考えても妻と子供を残して失踪するような人には見えません。
ではいったい、どうして九太のお父さんは突然いなくなってしまったのか?劇中では詳しく描かれていませんが、恐らく九太の両親は「駆け落ち」みたいな形で結婚したのでしょう。母親の方は良家のお嬢さんで、結婚を反対されていたけれど、身内の反対を押し切って一緒に暮らし始めたようです(三人が写っている写真はその頃のもの)。
しかし、彼らの暮らしていたアパートが親戚たちに見つかって、無理やり父親から引き離されてしまいました。その後、母親は仕方なく九太と二人で暮らし始めたものの、間もなく交通事故で他界して…という流れだったようです(九太と母親が住んでいたマンションは親戚が用意したものらしい)。
まあ、その後無事に再会して、最終的に九太も人間界に戻って、親子仲良く暮らしましたとさ、メデタシメデタシ…で終わってるんだけど、お父さんの存在感が薄いんですよね(苦笑)。もうちょっと、互いの気持ちをぶつけ合うような場面があっても良かったのになと。
●大事故でも犠牲者なし
熊徹が付喪神に転生して大太刀に姿を変えたり、九太の胸の剣になったり、色々あって一郎彦の鯨をなんとか撃退し、渋谷の騒動は無事に収まりました。しかし、大型トレーラーが車列に突っ込み、大爆発を起こして辺り一面火の海となる大惨事が勃発したため、さぞや大勢の犠牲者が出たのでは…と思いきや、なんとまさかの死傷者ゼロ。
どうしてこうなったかと言うと、もしケガ人や死者が出たりしたら、一郎彦がその罪を背負わなければならない。でも彼は”闇”に心を支配されていたから、その時の記憶がないんです。そんな状態で罪を背負わせるのは可哀相だし、物語がハッピーエンドで終われません。
そこで、わざわざ「爆発事故が起こったが、奇跡的に重傷者は出ていない」と事故のニュース映像を流し、映画を観ているお客さんに「大丈夫です!彼は誰も傷つけていませんよ!」とアピールして安心させようとしてるんですよ。まあ、細田監督の配慮なんでしょうけど、こんな大事故で死傷者ゼロって、いくらなんでも無理がありすぎるだろ(苦笑)↓
●セリフでなんでも説明しすぎ
あと、映画全般において気になったのは、「状況や心情をセリフで説明しすぎている」という点ですね。例えば、主人公が初めて異世界に迷い込んだシーン。バケモノだらけの街を見て驚いた九太は、来た路地へ引き返そうと後ろを振り返るが、なぜか壁で塞がれていて戻れない。
そこで「あれ?今来たはずの道がない!」と言葉を発してるんですけど、来た道がなくなっているのは映像を見れば誰でも分かるし、壁をペタペタ触る動きでも表現しているのだから、わざわざセリフで説明する必要はないわけです。
終盤の闘技場のシーンでも、多々良と百秋坊が「見ろよ、あいつの顔、笑ってやがる」「九太と一緒に稽古している時の顔だ」「まさか!試合中だってのに」などと細かく熊徹の心情を解説していますが、本来は映画を観ている観客がそれぞれの考えで判断するような事柄を、全部言葉で説明してるんですよ。
こういう”過剰な説明セリフ”を多用しているのは、もしかしたら「映画を出来るだけ分かりやすく見せたい」という細田監督の親切心なのかもしれません。しかし「多くの観客に分かりやすく見せること」は、「キャラクターの気持ちや作品の主張を口に出して語らせること」とイコールではないのです。
むしろ、観客に考えさせる余地を与えない、”思考の権利を奪う無粋な行為”とすら言えるでしょう。細田監督は「ここまで何もかも言葉で説明しなければ、最近の観客は内容を理解できない」とでも思っているのでしょうか?もしそうだとすれば、観客の理解力を信用しなさすぎですよ。
そこで「いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう?」と気になって調べてみたら、衝撃の事実が発覚!なんと、「セリフで何もかも説明する」という今回の演出は、細田監督の判断で意図的にやっていたらしいのです。以下、製作に関わった川村元気プロデューサーのコメントより↓
大事なことをちゃんとセリフで言おうというのも今回のテーマの一つとしてあって、セリフも音楽も盛り盛りで、というのは黒澤イズムですよね。活劇を大作でやろうとした時に、細田監督の中でどうしても黒澤映画が教科書になってきたんだと思います。 (「SWITCH 2015年7月号」より)
川村プロデューサーのコメントによると、今回「大事なことをちゃんとセリフで言おう」と細田監督が掲げたテーマは、黒澤映画の影響を受けたから、ということらしいのですが、黒澤作品ってそんなに説明セリフが多かったっけ?う〜ん、釈然としないなあ。なお、この件に関しては下記のサイトで詳しく考察していたので参考までに↓
・最初から最後まで登場人物が自分の心情と行動をすべてをセリフで説明する史上最悪の副音声映画『バケモノの子』
●脚本が悪い?
さて、最初に述べたように『バケモノの子』は世間の評価が賛否両論真っ二つに分かれた映画なんですけど、”否の評価”として多かった意見の中に「脚本がダメ」というものがありまして。実は、今回の映画は細田監督の初脚本作品なんですね。
『時をかける少女』、『サマーウォーズ』、『おおかみこどもの雨と雪』など、今までの作品では脚本家の奥寺佐渡子さんがシナリオを書いていたのですが(『おおかみこども』は共同脚本)、本作では細田監督が初めて自分一人で脚本を書いているのですよ。
その最大の理由として「自分だからこそ表現できる思いを、作品に盛り込みたいという気持ちが強まったから」と述べています。しかし、結果的に「ストーリーの構成がおかしい」「話の流れが不自然すぎる」などの批判が相次ぎ、「細田守には脚本を書く才能がない」とまで言われてしまいました。
さらに「主人公が不思議な世界へ迷い込み、本名とは違う”別の名前”をつけられ、そこで様々な経験をする」というストーリーは、完全に『千と千尋の神隠し』と一緒なんですよ。もちろん、偶然似てしまっただけなんですが、似ているが故に『千と千尋』と比較され、その差を指摘されてしまうわけで。
確かに、細田監督が考えた「少年が異世界に迷い込んでバケモノと一緒に修業する」という設定自体は悪くないと思います。ただ、細田監督が書いた脚本では、その設定の面白さを十分に活かし切れているとは言い難いのではないか?と。なので、やはり脚本は奥寺佐渡子さんに書いてもらって、監督がそれを上手く料理する、という制作スタイルの方が本領を発揮できるんじゃないかと思いました。
●異世界が近すぎる
例えばこの手のファンタジー映画の場合、「異世界をどれだけ魅力的に描けるか?」という部分が重要なポイントになるのですが、『千と千尋』に比べると『バケモノの子』の”渋天街”は魅力に乏しく、後半になってからは特にそれが顕著になります。
つまり、「人間界とは異なる非常に特別な場所」だと思っていた渋天街が、実はいつでも自由に行き来できると判明し、「特別でも何でもない場所」になり下がってしまうのですよ。主人公が勉強のために両方の世界を行ったり来たりしている場面を見て、「近所のコンビニへ行く程度の感覚なのか?」とガッカリしました。
やはり”異世界モノ”といえば、「滅多なことでは行けない」あるいは「行ったら二度と戻れない」みたいな制約があって初めて「特別な場所」という価値が生まれるのではないかと。それなのに、「いつでも簡単に行けるし、自由に戻れる」となったら、その価値が激減してしまうわけですよ。
ラストの主人公の”選択”も、最終的に人間界を選びましたが、それは「いつでも戻って来ることが可能」という前提のもとに下した選択であるため、”強い決意”や”覚悟”みたいなものが微塵も感じられず、カタルシスも得られません。故に、映画を観終わっても全然スッキリしないのです。そこが残念でしたねえ。
●なぜ楓が渋天街に入って来れたのか?
そのラストシーンでもビックリするような出来事が勃発(笑)。「渋天街を救った九太を讃える宴」が開催されている中、突然、楓が現れたのです。「どうしてここに…?」と驚く九太。実はこれ、多々良が「楓ちゃんは俺と一緒に九太を応援した仲だから、九太を祝う場所には絶対にいなきゃいけないだろう」と考え、わざわざ呼び寄せていたのですよ。
しかし、バケモノの世界へやって来た楓が何をしたかと言えば、落とした『白鯨』の本を届けることと、高認(高等学校卒業程度認定試験)の出願書類を渡すこと。それ、今必要かなあ?しかも高認の出願書類を渡すということは、今後、九太が渋天街で生きていくのか、それとも人間界で生きていくのかを決めさせる、という意味なのです。
「どうするか、蓮くんが選ぶんだよ!」と満面の笑みを浮かべながら九太に選択を迫る楓ちゃんが怖い!その笑顔に気圧されたように「……(試験を)受ける」と答えてしまう九太。その瞬間、「やったあ!そうだと思ってたんだ!一緒に頑張ろう!」と楓は大喜びしていますが、ここは渋天街で周りはバケモノばっかりなんですよ?
そういう状況の中で、主人公がバケモノの世界じゃなくて人間界を選び、それをヒロインが大喜びしてるっていうのは、ちょっと空気を読めなさ過ぎというか…。いや、バケモノたちも九太が人間界へ戻るのは問題ないと考えているのかもしれませんが、子供の頃から8年間もここで暮らしてきたんだから、もう少し名残惜しそうにするとか、”愛着”みたいなものは感じないのかな?と。
あまりにもあっさり決断を下したため、このシーンを観ると「九太にとってバケモノの世界は、その程度のものだったのか…」と少し寂しくなりました。というか、ここに楓がやって来ること自体が激しく間違ってるような気がして仕方がないんだけど。むしろ「来なくていいよ!」って感じでしたねえ(^_^;)
●チコって何?
最後の疑問は、物語の序盤から登場している謎の生物「チコ」。初めてチコを見つけた九太は「ネズミ?」と言っていますが、どう見てもネズミではありません(笑)。そもそもネズミの寿命は1〜2年しかないのに、九太が17歳になった時にも元気で生きてますからね。
では、このチコの正体は何か?というと、たぶん映画を観た人も薄々気付いてると思いますが、九太のお母さんなんですね。映画の中では、九太が悩んでいる時に母の声でアドバイスを与えたり、闇堕ちしそうになっているところを助けたり、「もしかしてお母さん?」と思わせる場面がいくつか出て来ます。
ただ、最後まで映画を観ても、ハッキリとそれを分からせる描写は出て来ないんですよね。だから、「チコの正体は何だろう?」とモヤモヤするんですけど、小説版ではかなりハッキリ書いてありました。
九太が人間界へ帰った後、エピローグを語るシーンで「九太のことは、楓ちゃんがしっかりついていてくれるし、亡くなった九太のお母さんだって、きっと遠くで見守っていることだろう。”キュッ!(チコの鳴き声)”いや、案外、すぐそばで見守っているのかもしれないな…」と多々良が説明しています。なので「チコ=お母さん」で間違いないでしょう(^_^)
というわけで、『バケモノの子』を観て個人的に感じた疑問や違和感を書き出してみたんですけど、”面白い映画”ではあるんですよね。ただ、モヤモヤする場面が多いというだけで。私見ですが、観た後に心にモヤモヤしたものが残る映画っていうのは、”観る価値がある映画”だと思います。
例えストーリーにおかしな部分があったとしても、観賞後に皆で色々なことを話し合ったり、一生懸命考えることによって、いつまでも観客の心に残るものだし、心に残っている限り、その映画は観た人にとって”価値がある”ということなのです。
細田監督は新作を作るたびに賛否両方の評価に晒され、前作の『おおかみこどもの雨と雪』でも「田舎暮らしの描写にリアリティがない」などの厳しい意見が出ていました。しかし、新しいものに挑戦するということは、そういうことだと思います。次回作でも、ぜひ新しい表現を見せて欲しいですね(^_^)