どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて先月、8月27日に宮崎吾朗監督の最新作『アーヤと魔女』が公開されました。
映画『アーヤと魔女』は、『ハウルの動く城』の原作者として知られるダイアナ・ウィン・ジョーンズの児童小説をベースに作られ、魔女の家で暮らすことになった孤児アーヤの生活を描いたアニメーション作品です。
宮崎吾朗監督にとっては2011年の『コクリコ坂から』以来、10年ぶりの劇場アニメ(ただし元々はNHKで放送された番組)ということでファンからも期待されていた本作ですが、残念ながら状況はあまり芳しくないようですねぇ。
『アーヤと魔女』のオープニング興行収入は5800万円で初登場8位スタート。公開3日間で累計7400万円、観客動員数は5万6000人を記録しました。
これがどれぐらいの成績なのか、いまいちピンと来ないかもしれませんが、例えば吾朗さんの初監督作品『ゲド戦記』の場合、初登場時のランキングは第1位で初日2日間の興行収入は約9億円、観客動員数は約67万人という”堂々たる大ヒット”でした(最終的な興収はなんと78億円!)。
また、劇場2作目となる『コクリコ坂から』の初登場時のランキングは第3位、公開初日の3日間で興収は約6億円、観客動員数は約45万人を記録しています(最終的な興収は45億円でまたもや大ヒット)。これらに比べると『アーヤと魔女』は…
まあ今回はコロナ禍ということもあり単純に比較はできませんが、それでも『コクリコ坂から』の10分の1程度という低い数字はさすがに看過しがたく、さらに370館以上もの上映館数を考えると”爆死状態”と言っても過言ではありません。
ちなみに、同じく370館で公開された『ワイルド・スピード ジェットブレイク』の場合は、土日2日間で興収5億5300万円、観客動員35万2000人を記録し初登場1位。
細田守監督の『竜とそばかすの姫』もほぼ同じくらいの公開規模ですが、土日2日間で興収6億8000万円、観客動員45万9000人という好成績を叩き出し、2位以下に大差をつけて初登場1位を飾りました。
こうして見てみると、『アーヤと魔女』の興行収入がいかに少ないかが分かるでしょう。当然ながら今年公開された映画(上映館が370館越えの作品)の中では現時点で最低の成績となり、ジブリの歴代興行収入でもワーストを記録したそうです。
さらに2週目以降も全く下げ止まる気配を見せず、9月5日までの累計興収は1億6000万円、観客動員数は13万3000人。ランキングの方は早くも”圏外”になってしまいました(わずか2週目で圏外まで落ちるとは…)。3週目も累計1億9000万円という低い数字は変わらず、関係者の間では「最終興収は3億円以下なんじゃ…?」と言われている模様。
このように、大ヒットとは程遠い状況の『アーヤと魔女』ですが、実際に観た人の評価はどうなのか?というと、これまた微妙な感じに…
「ストーリーがつまらない」「主人公に共感できない」「母親役の声優の演技がひどい」「ファンタジー要素が少なくて面白くない」「3DCGが普通すぎてジブリアニメの良さが全く出ていない」「終わり方が中途半端」など、辛辣な意見が数多く見受けられます。
一方、ポジティブな意見としては「ストーリーがシンプルで分かりやすい」「主人公のキャラクターが斬新」「映像がきれい」「音楽が素敵」「エンディングで映る手描きのイラストが良かった」など、一応褒めてはいるもののあまり内容と関係ないような…。
と思ったら、一人だけ絶賛している人がいました。それが宮崎吾朗監督のお父さん、宮崎駿監督です!
「試写を観たら面白かった」「吾朗はちょっと無理なんじゃないかと思ってたけど、思いのほか健闘してて」「大したもんですよ」「みんなの感想も良かったし」「面白いと単純に言えるのは良いことなんですよ、本当に」「元の作品が持っているエネルギーをちゃんと伝えてると思うんだよね」などと息子の作品を褒めまくり!
『ゲド戦記』の時はボロカスに貶してたのに、今回はうって変わって大絶賛しているのです。あまりにも褒めすぎてて、ちょっと気持ち悪いぐらいですよ(「一体どうした、宮崎駿!?」とビックリしましたw)。
ちなみに、僕の個人的な感想としては「決してつまらなくはないけれど、特別に面白くもない」って感じでしたねぇ(宮崎駿さん、ごめんなさいw)。
今回スタジオジブリが初挑戦した3DCGは悪くなかったです。ただ、ディズニーやピクサーなど世界中で3DCGのアニメが作られている昨今、強豪ひしめく中で差別化を図るのはかなり難しいんじゃないでしょうか。
今の段階では「悪くない」という程度で、「ジブリの3DCGはディズニーやピクサーよりもこの部分が圧倒的に勝っている」みたいな”優位性”が見えづらいからです(ぶっちゃけ「普通じゃね?」と思ったしw)。
また、キャラクターに関しても主人公はそれまでのジブリヒロインには見られない”ズル賢さ”みたいな特徴があって面白かったんですが、他のキャラは割と類型的であまり魅力を感じません。
そしてストーリーの方も、「原作を忠実に再現したい」という思いは伝わって来るものの、「尻切れトンボ」的なラストシーンも含めてどうにも中途半端なんですよね。
このように、ストーリーも映像も非常に丁寧に作られているにもかかわらず、それが面白さに上手く繋がっていなくて、全体的に「可もなく不可もない雰囲気」が漂ってるんですよ。
一体なぜこうなってしまったのか?あくまでも想像ですが、本作に対する宮崎吾朗監督の「なるべく平穏にすませたいという姿勢」が関係しているのではないかと…
例えば「終わり方があっけない」という批判がありましたけど、これは原作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズさんが『アーヤと魔女』の出版後に亡くなってしまったことが影響しているためで、ほぼ原作通りなのです。
吾朗監督自身もインタビューで「原作を読むとストーリーが完結していない感じがあるけれど、無理に膨らまそうとすると別な作品になってしまうので…」と答えており、脚本を担当した丹羽圭子さんにも「原作に忠実に書いてくれ」と指示したらしい。
しかし、小説として書かれた原作とアニメーション作品とではメディアの表現形式が全く違うので、たとえ原作通りに作ったとしても面白いアニメーションになるとは限りません。
父の宮崎駿監督はそのことを十分に理解しているからこそ、同じダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの原作『ハウルの動く城』をアニメ化する際に自分なりの解釈を加え、設定やストーリーを大きく変更してみせたのです。
もちろん、それによって逆に原作の魅力が損なわれてしまうかもしれないし、「映画の出来が悪ければ原作ファンから非難される」というリスクだってあるでしょう(実際『ハウル』も「ワケが分からん」という批判が多かったし)。
でも、だからと言って「原作通りに作ればファンから怒られることはないんだし、そっちの方が無難だろう」みたいな気持ちで作った映画が(いや、吾朗監督はそんな気持ちで作ってないでしょうけど)、面白い作品になるとは思えません。
まあ、厳密に言うと全く変えてないわけじゃなくて、いくつか設定は変更してるんですけどね。例えば、原作ではアーヤの母親の背景があまり描写されていなかったため、「元ロックバンドのヴォーカル」という過去を付け加え、さらに「ベラ・ヤーガとマンドレークも同じバンドのメンバーだった」という設定にしたそうです。
確かに、この変更によってちょっと「面白くなりそうな雰囲気」は出てるんですよ。
ただ、宮崎吾朗監督はインタビューで「ストーリーを改変するのではなく、あくまでもキャラクターの背景を深掘りするため」と答えてるんですよね。だから、せっかく面白そうな設定を付け加えても、それがストーリーに活かされていないのです。その辺が残念でしたねぇ。
どうせなら、3人がバンドをやっていたエピソードをもっと膨らませて、そのことがアーヤの心情に何らかの影響を与える…みたいな展開にすれば、ドラマが変化してさらに面白い結末になったかもしれないのにもったいない!
おそらく吾朗さん的には「そこまで原作を変えたくない」と考えていたのでしょう。確かに、あまりにも変えすぎると別の物語になってしまうというのは分かるんですが、もしかすると”過去の経験”も影響しているんじゃないだろうか?と。
吾朗監督は以前、『ゲド戦記』のストーリーを大きく改変したことで原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンさんから「これは私の『ゲド戦記』ではない。宮崎吾朗の映画だ」と言われた経験があるのです。
さらに「『となりのトトロ』のような繊細さも、『千と千尋の神隠し』のような豊かなディテールもない」「物語のつじつまも合ってない」などと厳しく批判されていました。
なので、吾朗監督の中に「あまり原作を変えすぎるのは良くない」という思いがあったのかもしれません。しかし、本人が「完結していない(中途半端だ)」と感じているものを、そのままアニメ化するってどうなのよ?と思うんですよね。「監督としてそれでいいのか?」と。ここはやはり、吾朗監督なりの解釈でキチンとした結末を描くべきだったんじゃないかなぁ。
ちなみに、アニメーション監督の押井守さんは宮崎吾朗さんの作品について以下のようにコメントしています。
吾朗くんにはフェティッシュが足りなさすぎる。そのせいで人間関係やその描写も、全てがサラッとしすぎちゃったんだよ。アニメーションの監督になるために必要不可欠な条件は”フェティッシュ”なの。フェティッシュなしに、画を動かして映画を作るなんて面倒くさい仕事、出来るわけないじゃない。アニメーションの監督には、もれなくフェティッシュがあるんだよ。
宮さんの場合はメカと美少女。でもそれは、宮さんに言わせれば劣情じゃなくて正当な美意識。そうやってクリエーターの趣味嗜好や欲望がまんま出てしまうのがアニメーションなんだよ。沖浦(啓之)の場合で言えば足首の太い女の子だし、僕で言うと女性の手足が好きだから、ついそっちを描いてしまうとかだよね。だから、アニメーションはフェティッシュの形式とも言えるんですよ。
なるほど、確かに言われてみれば宮崎吾朗監督の作品を観て”フェティッシュ”を感じることってほとんど無いんですよねぇ。
細田守監督の場合は”ショタ”とか”ケモナー”など、非常に分かりやすくフェチが丸出しになってるし(笑)、庵野秀明監督の場合は必ず特撮テイストを入れるなど、監督の多くが自作に趣味嗜好をブチ込んでくるものですが、吾朗監督だけそういう特徴が見えにくい。ちょっと珍しいですよね。
もし仮に、押井監督の言う通り「フェティッシュがアニメーションの監督になるために必要不可欠な条件」だとするならば、その辺が宮崎吾朗監督作品に対して「いまいち物足りない」「悪くはないが、特別に良くもない」と感じてしまう要因なのかもしれません。