どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて現在、劇場で公開中の3DCG映画『ドラゴンクエストユア・ストーリー』が(色んな意味で)話題になっているようです。
『ドラゴンクエスト』と言えば、いまさら説明の必要もないほどの超有名ゲームで、1986年に第1作目がファミコンで発売されて以来、大人から子供まで絶大な人気を獲得してきました。
そんな国民的RPGのドラクエが「初の映画化」となれば、ファンの期待も大いに膨らんでいたことでしょう。だがしかし!
観た人の評価は賛否両論…というより、今のところは圧倒的に「否」の意見が多数を占めている模様。その理由は、本作のクライマックスに仕掛けられた”どんでん返し”です。
詳細は省きますが、映画終盤に突然「ゲームの『ドラゴンクエスト5天空の花嫁』をベースにした物語だと思っていたら、実はゲームそのものだった」という衝撃の真相が明かされビックリ仰天!
さらにラスボスが「この世界は現実じゃない。単なるゲームなんだよ」「こんなものに夢中になってないで、早く大人になれ!」みたいなことを訴えてくるわけです。まさに観る者の意表を突きまくる超展開ですが、これを目の当たりにした多くのドラクエファンが「ふざけんな!」と激怒しているらしいのですよ。
で、映画の構造的に『LEGOムービー』との類似性を指摘する人や、あるいは『レディ・プレイヤー1』のラスト(主人公が「ゲームばかりしてないで現実世界に目を向けろよ」と語りかける)に似ている等の意見が上がっているようですが、そんな中、「これって『新世紀エヴァンゲリオン』じゃね?」という声もチラホラと…。
よくよく考えてみるとドラクエの映画ってエヴァのTV版にそっくりなんだよ。時間かけて積み上げって行ったストーリーを最後にぶん投げて根拠のよくわからない自己肯定で終わる。
— ゴローofficial (@narusawa_ken1) August 7, 2019
TV版の最終回の後エヴァはそれはもう酷いくらいに叩かれたのでドラクエの映画が叩かれるのも仕方ないと言えば仕方ない
ドラクエの映画を、実写版デビルマンに例える人は、少し考え直して欲しい。
— 池っち店長 (@ikettitencho) August 4, 2019
デビルマンは全編通してめちゃくちゃ。
しかしドラクエは「ラストの展開が受け入れられない」という人達も「そこまでは傑作」と言う。
比較対象としては正しくない。
むしろ「エヴァAir/まごころを君に」と言うべき。
映画「ドラクエ」のように終盤にある試みを取り入れている映画は「エヴァ旧劇」「大日本人」などがあり、観客にストレスを強いる冒険的趣向だ。直接的には「LEGOムービー」からの着想だと思うが、これは物語と拮抗するウェイトでユーモア精神が貫かれているからこそ感動できるのだ。#ドラゴンクエスト
— シワタネホから愛を (@tairainthehouse) August 6, 2019
エヴァ旧劇場版をリアルタイムで見た人ってこんな気持ちになったんだってのを、ドラゴンクエストの映画みてやっとわかった。
— k (@koityMX) August 2, 2019
ドラクエの映画見たけど
— リュウ@DQX 星ドラ (@soukai0114) August 4, 2019
エヴァ旧劇を初めて見た時のような感覚になった
知っている人も多いと思いますが、『新世紀エヴァンゲリオン』は「ついに数々の謎が解明されるのか!」というファンの期待を最終回でぶち壊し、さらに劇場版でも「お前らアニメばっかり見てないで現実を見ろ!」と言わんばかりに客席の映像を映すなど、アニメ史に残るような超絶展開が話題となりました。
そういうメタ構造は、確かに『ドラゴンクエストユア・ストーリー』と似ているかもしれません。しかし、そもそも庵野秀明監督はどういう意図であのオチを提示したのでしょうか?
というわけで当時の心境を知るために、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(夏エヴァ)の公開後に行われた対談から、庵野監督の発言を引用してみます。
庵野 やっぱり『夏エヴァ』の作業は苦痛でしたね。あれは、自分が終わるためのものだったし、あとは付き合ってくれたスタッフがいい顔してくれればそれでいいという。この2点だけですから、お客が存在しないんですね。だから、公開後の騒ぎとかも僕にとっては何の興味もないんです。
ー それは、第三者が見ても見なくても良かったと?
庵野 良かった。興行的には大丈夫だったし、そういうことは僕にはもう一切関係なかった。
ー つまり、終わらせるというだけで完成ではなかったということ?
庵野 いや、終わることが完成でもあるんですよ。終われば良かったんです。あとは、テレビのリテイク作業は要するに後片付け。皿を片付けて棚に戻すだけですね。メインディッシュはすでに出しちゃったから、それを食うも食わないも僕にとっては関係ないんですよ。お客の前に皿を出すというのは、出した皿に関しては持てるものを全て出し切っているから、それでいいんです。
ー 客がそこで「マズイ!」と言ってガッシャ~ンとテーブルひっくり返して帰っても構わなかったと?
庵野 構わなかった。「マズい!」と貶されても「うまい!これは最高だ!」と褒められても、僕の心はもう動かない。まあ、褒められれば付き合ってくれた人たちに対しては嬉しいですけどね。それはいいことだと思います。スタッフに対する評価だから。自分自身の評価よりも、そっちの方が重要なんです。
ー 自分自身への評価は、庵野さんの上をスルスルと通り抜けていく?
庵野 僕にとって唯一の客はスタッフだったんですね。だから、スタッフがいい思いをしてくれたら、それで良かった。そこから先は存在しないんです。すごいクローズですよね。
ー 庵野さんのそういう発言に対して「プロじゃない」と言う人もいるのでは?
庵野 言わせとけばいいんですよ。その程度でしか物事を計れない人たちなんだから。
ー でも、そういう発言を聞いて「怒るか・怒らないか」を決めるラインっていうのは、わざと俺たちにひどい飯を食わそうとしているのか否か?ということだと思うんですが。
庵野 ひどい飯を出した覚えはないです。人に出す以上は、毒を混ぜるようなことはしません。出すときには、今できる中で最高級のものを、もし卵と冷や飯しかなかったら、それでできる卵チャーハンの一番いいやつを出す。その時に、それまでずっと甘いデザートばっかり食ってた人には、ちょっと塩を強くしたものを出すとか。それぐらいです。
ー TV版の『エヴァ』の最終回を見て思ったのは、「毒を混ぜられたか」ということだったんですが。
庵野 あれは、毒というよりも「そういうのを食った方がいい」ということです。
ー それは、自分も含めて?
庵野 自分も含めて。あとは、どんな皿を出しても怒るんだったら、可能な限り怒らせた方がいい。それはあるんですよ。中途半端が一番良くない。あと、同情を買いたくなかったっていうのも結構でかい。あそこで同情を買うのが一番ラクなんですよ。でも、それだけは嫌だった。同情されるぐらいなら、怒られる方がいい。それも徹底した方がいい。だから、一番客が怒るのをやる。その方が、食った方もスッキリするんです。一口食って「マズい!」って言った方が、お客としては嬉しいわけでしょう。こんなマズい飯を食わされたって、人に話題を提供できるじゃないですか。
ー そこには情動があるから。
庵野 それはコントロールだと思うんですよ。そこも含めてのものだと僕は思う。客にものを出す以上は、そこまで計算しないと。少なくとも予測は必要。あとは、確率と”客筋”みたいなものを見極めること。TV版『エヴァ』の時の客筋というのは、あれぐらいでちょうどだと。それでも足りない部分というのは、さらにその後、塩をまいて帰す。それぐらいやらないと、僕の気も済まなかったし、客の気も済まないだろうと。
そういう意味では、常に無意識にそっちのほうへ行っちゃうんですよね。猛毒を混ぜているつもりはないです。少なくとも致死量には達していない。これ以上混ぜたらマズいというのを、ギリギリ自分の中で持っていると思うんですけど。
つまらなかったのは(そういうコントロールを)超える人があまりいなかったこと。でも、予測の範疇外という人はいたし、そういうことに対してわかってくれた人も少しいてくれました。そういう人がいてくれただけで嬉しかったですね。
ー 『夏エヴァ』に関しても?
庵野 いや、『夏エヴァ』にはそういうのすらない。それは、お客さんが「おいしいです」ってイイ顔してくれた方が、もちろん嬉しいですよ。嬉しいけど、根本はもっと関係のないところまで行っちゃってるんで。わかんないだろうなあ、こういう感覚って、他の人には。やっぱり難しい。わかんないと思いますよ。
先日お会いした藤井フミヤさんも、「自分が出したアルバムは、出した後はもう聞かない」って言ってました。そういう感覚だと思うんです。アルバムを出すまでは、本当にガーッとやるだろうけど、出した後というのは、それを聞いてくれるも聞いてくれないも…。少なくとも自分ではもう聞き返さないし。それに近いです。ただ、当たった方が次が作りやすくなる。だから、当たらないよりは当たった方がいい。あとは、元は取らなければいけない。それは、お金を出してくれた人に対する最低限の礼だと思う。『エヴァ』に関しては、もう十二分に元を取っているから、もういいです。
「月刊アニメージュ 1998年2月号」のインタビューより
この庵野さんの発言を読む限り、TV版の最終回は「観ている人を徹底的に怒らせる」という意図があり、そして劇場版の『夏エヴァ』に関しては「終わらせるためにやっただけ」「客の反応には一切興味がない」という、まあ改めて「この人、ヤベえな」としか思えないんですけど(笑)。
じゃあ『ドラゴンクエストユア・ストーリー』はどうなのか?っていうと、全く違うと思うんですよ。
少なくとも山崎貴監督の方は「観客を怒らせる意図」なんて無かったはずだし、「観客の反応に興味はない」などと考えてもいなかったでしょう。むしろ問題は、「そういう意図がないのに多くの観客を怒らせてしまった」という点にあるのではないかと。
山崎監督はあのオチを映画の中で肯定的に描いています。つまり、「これを観たドラクエファンはきっと喜んでくれるに違いない」「感動してくれるに違いない」と信じてるんですよね。でも、現実は全然違った。その”感覚のズレ方”が問題なんじゃないかと。
例えば、「この映画を公開したらファンからもの凄い批判が来るかもしれない」「しかし、それでもやるんだ!」という”クリエイターとしての覚悟”や”信念”を持ってやったのならまだわかるんですが、そうじゃないってところに、庵野監督とはまた違う意味での「ヤバさ」を感じてしまいました(^^;)