どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて先日、金曜ロードショーで劇場アニメ『コクリコ坂から』が放送されました。
監督を務めた宮崎吾朗さんは世界的に有名なアニメーション監督:宮崎駿さんの息子で、本作の前に『ゲド戦記』(2006年)という映画を作っています。
つまり『コクリコ坂から』は吾朗監督にとって2作目の長編映画になるわけですが、実は前作の『ゲド戦記』の制作中に大変なことが起きていたのですよ。
もともと宮崎吾朗さんは映画監督ではなく、ジブリ美術館の館長でした。しかしオープンして2年ぐらい経った頃、「何だか物足りない気分になってきて、そろそろ辞めてもいいかなと思い始めた」とのこと。
そんな時、鈴木敏夫プロデューサーから「ジブリの若手を監督に起用して『ゲド戦記』を作りたいんだけど、吾朗くん、暇だったらオブザーバーとして参加してくれないか?」と言われたらしい。
ところが、当初監督をやる予定だった人が「僕はこういう風に作りたい」「僕が思うようにやらせてくれないならやらない」などと言い出し、なんと1年以上も打ち合わせを繰り返すことになったのです。
そしてある日、煮え切らない態度に痺れを切らした吾朗さんが「やるのかやらないのかハッキリしろ!」とブチ切れたら、「じゃあ辞める」とその人が本当に辞めてしまい、代わりに吾朗さんが監督をやることになったという。
しかし、それを聞いた宮崎駿さんは大激怒。「何の経験も下積みもない人間がいきなり監督になるなんて、そんなバカな話があるか!」「俺がどれだけ苦労して監督になったと思ってるんだ!」と物凄い剣幕で怒ったそうです。
それに対して吾朗さんも「一緒にやってくれるスタッフがいるんだし、絶対に出来る!」と猛反論。すると、ますますお父さんの怒りに火が付いたのか「お前に出来るわけがない!」と机を叩いて激昂し、とうとう怒鳴り合いの大喧嘩になってしまいました。
結局、『ゲド戦記』の制作中はスタジオで会っても一切会話せず、映画が完成・公開してからも互いに一言も口をきかないまま、なんと3年が経過してしまったのです(まさに「親子断絶状態」と言わざるを得ないw)。
しかしその間、吾朗さんに子供が誕生しました。つまり駿さんに孫が出来たのです。
すると「孫が生まれたことをきっかけに、3年ぐらい喋ってなかった父と喋るようになった。もし孫が生まれなかったら断絶は続いていたでしょうけど、孫を合わせないわけにもいかないので(笑)」とのこと。
そして親子の断絶期間が終了した頃、ちょうど吾朗さんは『ゲド戦記』の次の企画を検討していたのですが、なかなか題材が決まらず行き詰っていました。すると突然、宮崎駿監督がやって来て『コクリコ坂から』の原作漫画を渡したそうです。
この漫画は数年前に駿さんが読んでいたもので、以前から映画化を検討していたようですが、それを息子に「やらせてみよう」と思ったのでしょう。
こうして宮崎吾朗監督の2作目は『コクリコ坂から』に決定!『ゲド戦記』の時は完全に息子を無視していた駿さんですが、『コクリコ坂から』に関しては自ら脚本を書いたり、原作で1980年代だった時代設定を1963年に変更したり、積極的に関わって来たらしい。
ところが、吾朗さんにとっては非常に難しい題材だったようで、以下のようにコメントしています。
ファンタジー要素がゼロで盛り上がりもあるんだか無いんだか分からないような地味な話だったので、何をよりどころにその時代の高校生の男の子と女の子を描いていけばいいのかをずっと悩んでいました。
だから『ゲド戦記』の時は絵コンテを3ヵ月ぐらいで終わらせてるんだけど、『コクリコ坂から』は半年以上か、もっと長くやってましたね。
父の書いたシナリオを変えていいものかどうか悩んでいたら鈴木さんに「変えてもいいんだよ」と言われ、絵コンテを半分ぐらい描いたところでもう1回考え直して、最初から全部やり直すという感じでした。
(徳間書店「どこから来たのか どこへ行くのか ゴロウは?」より)
結局、2010年の4月から開始した絵コンテ作業は2011年の1月にようやく完成したものの、その時点ですでに作画作業が始まっていたそうです(『ゲド戦記』の時は絵コンテが出来上がってから作画に入ったのだが、今回はスケジュールが無いため絵コンテが完成する前に作画に入らざるを得なかった模様)。
しかし「日常芝居が多いので話をなぞるだけではつまらない映像になってしまう」「どういう風にキャラクターを動かせば面白くなるのか悩んでいた」とのことで、絵コンテと同じく作画のスケジュールもどんどん遅れていきました。
さらに、制作が追い込み段階に入った3月11日に東日本大震災が発生し、日本中が大混乱に陥ったのです(交通機関が止まってスタッフが帰宅できなくなったため、ジブリで炊き出しを行い社内保育園に宿泊したらしい)。
その上、原発事故の影響で計画停電の実施も発表され、ジブリ社内では「このような状況では作業もままならない」「しばらく現場を休止すべきでは?」との意見も出た模様。
しかし、それに猛反対したのが宮崎駿監督でした。「生産現場は絶対に離れちゃダメだ!封切りは変えられないんだから、多少無理してでもやるべし!こういうときこそ神話を作んなきゃいけないんですよ!」と作業続行を強く訴えたそうです。
こうして混乱が続く中、『コクリコ坂から』の制作作業は継続され、7月の公開日になんとか間に合ったのです。後に宮崎吾朗監督は「1作目の『ゲド戦記』よりも2作目の方がずっと大変だった」と語っていますが、こんなに苦労してたんですねぇ(^^;)