本日6月29日は、僕の地元の岡山県岡山市が71年前にアメリカ軍の空襲を受けた日です。それに伴い、今月の初めに高畑勲監督が岡山を訪れました。『火垂るの墓』など、数々のアニメーション作品で知られる高畑監督は岡山の出身で、9歳の時に空襲を経験し、そのことが後の作品に影響を与えているという。
そんな高畑監督を招き、地元で「高畑勲監督、岡山空襲を語る〜アニメ『火垂るの墓』戦争と平和」という特別番組が放送されたので、本日は番組内で高畑勲監督が語った言葉を一部取り上げ、「戦争と平和」や自分の作品に関する高畑監督の考えなどを書いてみたいと思います。
高畑監督の実家は岡山市北区柳町という所にあり、番組では空襲があった日の「逃走経路」を高畑監督に辿ってもらう、という内容になっていました。当時、アメリカ軍は午前2時43分に岡山市街地への爆撃を開始したらしい。
街の南東方向から飛んできたB-29は、岡山中央郵便局付近を目標に、高度3000から4000メートルで焼夷弾を投下。岡山市の中心部から一斉に火の手が上がりましたが、高畑監督の家があった場所は空襲を受けた直後はまだ燃えていませんでした。
そして午前3時ごろ、家の2階で寝ていた高畑監督は、空襲に気付くとすぐに1歳年上のお姉さんと外へ飛び出したそうです。この後、2人はおよそ2時間にわたって炎の中を逃げまどうことになりました。以下、高畑監督の証言より。
「僕が玄関を出たら、大勢の人が走ってるわけ。それを見て”親に置いて行かれた”と思って一緒に走り始めるんだけど。表に飛び出した時、裸足だったんですよ。慌ててたんで、靴も履かずに飛び出して、しかもパジャマだけで逃げたんです。
地面は、いわゆるアスファルトを引いてたんだけど、火の熱でネチャネチャになってるんですよ。だから足の裏が熱くなるし、それからガラスの破片なんかがいっぱい刺さってね。もう大変だったんですけど。
逃げてる時には、足に何かが刺さってるなんて全然わからないんですよ。後になって、膿が出て来るからわかるんですよね。「あっ、こんなところにも刺さってる」って。もう必死ですからね。足が痛いなんてことより、焼け死なないですむかどうかの方が重要ですから。
僕と姉は「親とはぐれた」と思ったんだけど、その時、僕の母親と他の兄弟は火を避けて川の中に逃げてたらしくて。周りは全部燃えてるし、川の中なら多少安全だろうと。そこにも死体がいっぱい流れて来て大変だったみたいですけどね。
僕らはそんなことを知らないから、人が走って行く方向へ一緒に逃げてたんです。そうすると、トタンを引っ張るような”シャー”っていうような音がするんです。で、空を見上げたら火がいっぱい降ってくるんですよ。小さな点みたいな火なんだけど、それが大量に降ってくる。焼夷弾が燃えながら落ちてくるんですね。
それを皆見てて、「あっ、来た!」と思ったら隠れるんですよ、軒下に。昔の軒っていうのは全部瓦で出来ていて、側に必ず防火用水が置いてあるんですね、火を消すために。で、地面に落ちた焼夷弾は火を吹いて燃え上がるんです。
それは”焼夷爆弾”って言ってたんだけど、要するに単なる筒じゃなくて、ちゃんと爆弾の形をしていて、しかも破裂するんですよ(M47焼夷弾)。それがかなり近いところで爆発して、一緒に走っていた姉がバタッと倒れて、そのまま失神したんです。僕はもう怖くて、必死で名前を呼んで揺さぶり起したんだけど。後で分かるんですが、お尻に焼夷弾の鉄片が刺さってたんですね。
そして大雲寺の交差点から、さらに旭川へ向かって行こうとするんだけど、途中で進退極まるんですよ。横も燃えてるし、前の家も全部燃えてるし。もう熱くて熱くて、防火用水の水をかぶりながら逃げてるんだけど、すぐに乾くんですよ。
そういう状態でどこに逃げていいのかも分からず茫然としてると、一人のおっさんが走り出したんですよ。「何とかしなきゃいけない」と思ってたから、そのおっさんについて走って、何とか川の橋の袂まで逃げたんです。
で、どうにか川の側まで辿り着いたんだけど、火から離れると今度は寒くなってきてね。その上、雨まで降ってきて。”黒い雨”っていうと皆さん原爆を思い出すかもしれないけど、どんな空襲でもみんな黒い雨が降ったんですよ。燃えたススなんかが上昇気流に乗って空に上がって、それがまた降ってくるわけだから。雨そのものが汚れてるんですね。
で、そういう雨に当たったもんだから余計に寒くなって、その辺にあった荷物を包むような藁を体に巻いて。そして京橋を上がったところで偶然、姉の友達の一家と出会うんですね。それで、その人たちが避難している場所に連れて行ってもらって。奇跡的に私たちは助かった、という感じなんですけどね。
その後、疲れてたんで少し寝たんですけど、起きたらその家族に男の子がいて、僕より少し年上だったんだけど、「焼け跡を見に行こう」って言うんですよ。僕は行きたくなかったんだけど、仕方なくついて行ったんですね。そしたらもう、死体だらけで。怖くて震えが止まらなかったですね。だって人がいっぱい死んでるんだもん。匂いも凄いし。
でもそんな状態なのに、”父恋し母恋し”みたいな、全然そういう感じはしなかった。それが不思議でしょうがない。だって焼け跡に行けば、会える可能性だってあるわけじゃない?でもその時は気が動転しちゃって、行きたくないのに行ってしまって、沈んだ気持ちのままトボトボ帰って来て。
で、次の日の朝、両親や他の兄弟たちと再会するんです。ところが、なんか気恥かしい感じがして、劇的な再会なんかじゃ全然なかったんですよ。「お母ちゃん!」と叫んで抱きつくとか、手を取り合うとかね。向こうも僕の名前を呼びながら駆け寄って来るとか、そういう劇的なシーンが当然あってもいいのに、それが無かったっていうことが、僕の中で長年”情けない”という思いにとらわれましたね。
だから『アルプスの少女ハイジ』をやる時はね、もっとこう、”子供はこうあって欲しい”みたいなね、気持ちをバーッと表に出すような子供であって欲しいと、そういうことを心がけてましたね。実際、オンジと呼ばれてるお爺さんと再会する時にはさ、バーッと駆け寄ってドーンと胸に飛び込んだりしてるよね(笑)。まあ、僕もそういうことが出来たら良かったんですけどね。
『アルプスの少女ハイジ』第34話「なつかしの山へ」
『ハイジ』はだから、言ってみれば僕の理想像ですよね。まあ、僕に限らないと思うんだけど、あの作品は、『ハイジ』という作品そのものが”子供はこうあって欲しい”という理想を描いてるんですよ。
ただ、『ハイジ』は多くの人に愛されているし、僕自身も好きですけど、あれ以来ああいう作品は作ってないですね。作らないようにしてるんですよ。ああいう、心地良い方向に行かないように、自らブレーキをかけたいと。そういう気持ちがあるんでしょうね。
だって、ああいうことが出来ない子供はかわいそうじゃないですか。あんないい子にはなれないよって子供がいたら。もし、あの作品を親子で観てて、「ハイジって素晴らしいよね」ってなった時、子供が「でもあんな風には出来ないよ」って言った時に、親はどうします?「それでいいのよ」って言ってやんなきゃいけないでしょ?そういうのは、もう少しリアリティがあるものにした方がいいんじゃないかな、とね。
だから、その後に作ったものは、もちろん『火垂るの墓』にしてもそうだけど、もう少し現実的に、本当にいるんじゃないかと思えるような子供になるように心掛けましたけどね。
最近のテレビドラマなんか見てるとさ、すぐにみんな抱き合うじゃないですか?ああいうことは、昔は本当に無かったんですよ。今のテレビドラマはみんな嘘をついてるんです。今は皆を感動させようとしてるから、そうなってるけどね。まあ、分からなければ小津安二郎の映画でも観てください(笑)」