■あらすじ『母なる蒼きガイアをまわる、戦いの星・アンヌン。かつて、この星を”ガルム”の8つの部族が支配していた。ブリガ、ウルム、バセ、セタ、ボルゾイ、ゼネン、クムタク、そしてコルンバである。部族はそれぞれの役割によって異なる姿と言語を持ち、彼らを作りし神に仕えていた。しかし、創造主ダナンはある日アンヌンを去り、あとに残された八部族は覇権を巡って争いを始める。やがて、長きにわたる戦いによってアンヌンの大気は汚れ、大地は荒れ果ててしまった。八部族のうち、今も残るのはブリガ、コルンバ、クムタクの三部族のみとなり、神の言葉を伝えたとされる”ドルイド”すら死に絶えた。ブリガが強大な武力をもって地上を制覇し、コルンバは圧倒的な機動力で空を支配。クムタクはその優れた情報技術をもってブリガに仕えることで、かろうじて生きながらえていた。陸のブリガと空のコルンバ、アンヌンの覇権を賭けて、二大部族による最後の決戦が始まろうとしていた。そんな中、コルンバのカラ(メラニー・サンピエール)、ブリガのスケリグ(ケヴィン・デュランド)、クムタクのウィド(ランス・ヘンリクセン)が運命的な出会いを果たし、ガルムの秘密をめぐる旅に出る。彼らを待ち受けるのは希望か、それとも絶望か?「攻殻機動隊」「機動警察パトレイバー」シリーズなどの鬼才・押井守が、構想15年にも及ぶ幻の企画を自らの手で実写化したSFアクション超大作!』 ※以下の記事には多少ネタバレが含まれています。映画を観ていない人はご注意ください。
どうも、管理人のタイプ・あ〜るです。
現在、押井守監督の最新作『ガルム・ウォーズ GARMWARS The Last Druid』が劇場公開されています。この映画の成り立ちは意外と古く、最初に企画として立ち上がったのが1996年頃だそうで、『G.R.M.』または『ガルム戦記』などと呼ばれていました。
当初は壮大なビッグプロジェクトで、監督が押井守、脚本は伊藤和典、そして特技監督に樋口真嗣、衣装デザインに末弥純、メカデザインに竹内敦志、前田真宏、造形に竹谷隆之、音楽に川井憲次を迎え、さらに製作総指揮はジェームズ・キャメロンという、とんでもない豪華スタッフが集結していたのです。おまけに予算は60億円!
この時点ではすでにキャストも決まり、実際にアイルランドまでロケハンに行くなど、かなりの費用(約8億円)を注ぎ込んで準備が整えられ、2000年の劇場公開を目指して、パイロット版の映像まで制作されていました。ところがなんと!クランクイン直前になって突然企画がストップ。予算の見直しが行われ、大幅な脚本の変更を余儀なくされたのです。
そうこうしているうちにジェームズ・キャメロンが企画から離脱し、他のスタッフも次々と降板。この映画に関わった大勢の関係者が迷惑を被り、さすがの樋口真嗣監督も「押井さんのせいでエラい目に遭ったよ!」と『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』のメイキング映像で不満をぶちまけるほどでした。
こうして、超大作映画『ガルム戦記』の企画はボツになってしまったのですが、その映画が紆余曲折を経てついに完成!つまり『ガルム・ウォーズ』とは、「二度と実現することはない幻の企画」と呼ばれた映画の奇跡の復活戦であり、押井守監督にとって「20年ぶりのリベンジ」なのですよ。
ちなみに、『ガルム戦記』がボツになった直後に押井監督が「ふざけんな!何でもいいから映画を1本撮らせろ!」とブチ切れたところ、当時この企画を主導していたバンダイが「すまんかった」と6億円を出資。その結果、SF実写映画『アヴァロン』が作られたそうです(押井監督によると『アヴァロン』は、『ガルム戦記』の開発過程で生まれたノウハウを流用した”機能限定版”らしい)。
というわけで、苦労の末にようやく公開された『ガルム・ウォーズ』なんですが、全くヒットしてません(苦笑)。世間で話題にならないどころか映画を観た人の評価も散々で、「難解なセリフや固有名詞が多すぎて何が何やらさっぱり分からない」、「話の展開が退屈で眠くなる」、「CGが古臭い」など、ボロカスに貶されている模様。
Yahoo!映画のユーザーレビューでも(今のところ)「2.67点」という低評価に留まっており、酷評だらけだった実写版『テラフォーマーズ』の「2.52点」よりは多少マシではあるものの、ほぼ変わらないぐらいの低い評価を下されています。
まあ、今まで押井監督の実写映画を全て観てきた僕としては「うん、通常運転だな」という感じしかしないのですが(笑)、不思議なのは、押井監督ってもう何十年も前からこういう実写映画を撮り続けているのに、いまだに同じような批判を受けてるんですよね。にもかかわらず、相変わらず次々と新作を撮り続けているという。
しかも低予算で地味な映画なら、まだ分からなくもないんですが、今回の『ガルム・ウォーズ』はなんと製作費20億円!完全に超大作映画なんですよ。いったい、どうしてこんなに映画を撮らせてもらえるのか、非常に不思議なんですよねえ。普通に考えれば、「需要があるから」ってことになるんでしょうけど…。
というわけで本日は、なぜ押井守監督は難解な映画ばかり撮り続けているのか?なぜ押井監督の映画を観ると眠くなるのか?そして、なぜ押井監督は映画を撮り続けていられるのか?など、その理由を検証してみたいと思います。
●押井守の映画は本当に難解?
まず、いきなり核心的な部分から入りますけど、「難解だ難解だ」と言われまくっている押井守作品、実はそれほど難解じゃないんですよ。例えば『ガルム・ウォーズ』の内容にしても、互いに戦いを繰り広げているクローン兵たちが偶然出会って、「俺たちは何のために戦ってるんだ?」「そもそも俺たちって何者なんだ?」「あの場所へ行くと秘密がわかるらしいぞ」「マジかよ?行ってみよう!」みたいな感じの映画なんです。
「コルンバのカラとかブリガのスケリグとか、固有名詞がたくさん出てきてややこしい!」という意見も多いようですが、それは要するに「ペジテのアスベルとかトルメキアのクシャナ」などと同じく、元々SFやファンタジーには聞き慣れないワードが数多く出てくるので、「そういうものだ」と慣れてもらうしかありません。
ちなみに、『ガルム・ウォーズ』の日本語吹き替え版をプロデュースした鈴木敏夫さんは試写を観た後、「これって『風の谷のナウシカ』でしょ?」と押井監督を問い詰めたそうです(笑)。確かに、クライマックスでは巨神兵も出て来るし、言い逃れできないよなあ(^_^;)
●難解に見える理由とは
では、どうして押井監督の映画は難解に見えるのでしょうか?それは、押井監督がワザと難解にしているからです(笑)。押井さん曰く、「分かりやすい映画を作るのは簡単だ。しかし、それでは観た人の心に残らない。観終わった瞬間に忘れてしまう。でも、映画の中に”わからない部分”があれば、それは人の心に引っ掛かる。人の心に残っている限り、その映画には価値があるんだ」とのこと。こうして、いつしか押井監督の作品は「難解だ」と言われるようになっていったのです。
●長台詞の作り方
そして、作品を難解に見せるために押井監督が多用しているテクニックが「登場人物に難解な長台詞を喋らせること」なんですね。押井守作品を観た人は分かると思いますが、とにかくキャラクターのセリフが多い!アニメでも実写でも、気付いたら必ず誰かが「良く意味が分からない難しいセリフ」を延々としゃべり続けてるんですよ。
これらの膨大なセリフを作り出すために、押井監督が日頃からやっていること。それは「本を読む時にマーカーで線を引きまくる」ってことだそうです。自分の気に入った言葉を見つけたら、とにかく印を付けて、後から紙に書き出すらしい。以下、押井監督のコメントより↓
資料の収集は映像的なものに限らない。言葉の収集も大切な作業だ。僕は自分の好きな種類の言葉、自分の心に届きやすい種類の言葉を常に収集している。聖書などはその最たるものだろう。
だから、文庫本だろうが新書だろうが、僕が本を読み終えた後はマーカーで真っ黄色になってしまう。マーカーラインが溜まってきたら、それらを全部書き出してファイルにする。映画を作るときには、それを全部プリントアウトして見直しながら構想を練る。そして、採り溜めてきた言葉をどれだけぶち込めたかが、僕の作品に対する満足度を推し量るひとつの基準になっている。
僕は、自分の作品に誰かの言葉を引用することに、なんのためらいもない。僕の作品のほぼ全ては、膨大な言葉の引用の組み合わせから成り立っていると言ってもいい。
自分が考えた貧相な言葉よりも、他人が生み出した素晴らしい言葉を引用した方が、作品の完成度は高まるし、適切な場面に適切な言葉を引用できれば、それはもう借りものではないと思うからだ。
それに、言葉は借りものでも、それを繋いでいく人間や世界観は自前だし、いわばその世界をきちんと飾り込みたくて、膨大に言葉を引用していると言った方がいい。 (『これが僕の回答である。』より)
●押井守の映画はなぜ眠くなるのか?
押井守監督の映画を観ていると、途中で必ず「眠くなる瞬間」が訪れますが、当然、これも意図的にやってます(笑)。いったい何のために?実は押井監督は若い頃から大変な映画好きで、「学生時代は年間に1000本以上の映画を観た」と豪語するほどの映画オタクだったという。
特にジャン=リュック・ゴダールやアンドレイ・タルコフスキーに感銘を受けた押井監督は、自分の映画にも彼らの要素を積極的に取り入れていきました。
その結果、「映画は気持ちのよいシーンばかりで構成されるのではなく、流れに逆らう部分が必要なのだ」という独自の信念が生まれ、ストーリーの進行とは直接関係ない、強烈に眠気を誘うようなシークエンス(ダレ場)が挿入されるようになったのです。これが有名な「ダレ場理論」ってやつですね(笑)。
「タルコフスキーから色んなものをパクって『パトレイバー』を作った」と押井守が暴露するぐらい影響を受けた映画監督
●ダレ場理論
「ダレ場理論」は押井監督が勝手に考えた理論なので、他の映画監督は誰も実践していません。しかし、押井監督はこの理論に絶大な自信を持っており、アニメだろうが実写だろうが、毎回容赦なくダレ場をぶち込んでくるのです。
『ガルム・ウォーズ』では、地上に降りたカラ(メラニー・サンピエール)がひたすら歩き回る場面とか、戦車に乗って動き回る場面とか、主に移動シーンでダレ場が入ることが多いですね。押井作品に慣れていない人は、ほぼ確実にこのダレ場で寝落ちしてしまうようなのでご注意ください(笑)。以下、「ダレ場理論」を解説する押井さんのコメントより↓
映画っていうのは、快感原則だけでは成立しない。映像の快感原則をどこかで裏切ったり、阻止したりすることで初めて映画になるんだよ。止まらないとダメなんだよ。お客さんをいい気持ちにさせてるだけだったら、映画にならない。どこかで引きずったり、立ち止まらせたり、あるいは押しのけたりっていうさ、抵抗感があって初めて映画は映画足り得るんだよ。
よくスタッフから「押井さんの映画はもっと短く編集すればかっこいいのに」って言われるんだけどさ。でも、それは僕に言わせると、短くしたら確かに気持ちいいと思うし、「かっこいい」ってことで衆議一決すると思うけど、それでは映画にならない。10年後に生き延びる映画足り得ない。それが僕の価値基準だから。 (『勝つために戦え!』より)
徳間書店 (2015-04-02)
ジェームズ・キャメロンや宮崎駿など、様々な映画監督たちの作品や生き方について押井守が独自の観点で語り尽くした必携の1冊
●理解できないのは観客が悪い?
このように、「難解な長台詞」や「ダレ場理論」を実践し続けた結果、押井監督の作品は「意味が分からない!」「面白くない!」と思われることが多いようですが、こうした批判に対して監督自身はどのように考えているのでしょうか?以下、押井監督の”映画”と”観客”の関係性に関するコメントより↓
映画というものは、その映画を観る人の知性と教養と人生経験の総和に見合った、興奮と感動と感銘しか与えられない仕組みになっている。そういう意味で、映画とは観客の想いを受け止める”壁”のようなものだと僕は思っている。
誰もがその”壁”にボールを当てて、その跳ね返り方によって、それぞれ違った興奮や感動や感銘を受け取る。手応えを感じれば、またその監督の作品を観に来るし、イマイチだなと思えばもう来ない。硬球を投げつける人もいれば、軟球を投げつける人もいる。鉄球を思い切り投げつけてきて、「俺を感動させられるものならさせてみろ!」というタイプの人だっている。
そうした色んなボールにどこまで耐えられる”壁”を作れるかが、つまりは監督の手腕といえる。ボールを投げるのはあくまでも観客の側であり、作り手はそれを弾き返しているに過ぎない。少なくとも僕の場合、映画というものは、作り手側のメッセージや思い入れを投げつけるものではなく、ピッチャーはあくまでも観客であるという意識が強い。 (『これが僕の回答である。』より)
いかがでしょうか?要するに押井監督は「この壁、ボールを投げつけても上手く返って来ないじゃん!つまんないよ〜」と文句を言っている観客に対して、「それは壁が悪いんじゃなくて、お前の投げ方が悪いんだよ!もっとボールの投げ方を勉強したり、早いボールが投げられるように腕力を鍛えて出直して来い!」と言ってるんですね(笑)。
いかにも映画オタクらしい開き直りっぷりですが、押井監督のこの考え方にも「一理あるな」と思うんですよ。なぜなら、同じ作品を観ても感じ方は人それぞれ違うから。「全員の意見や評価が完全に一致する」なんてことはあり得ないからです。
例えば「同じ感動的なシーン」を観ても、号泣する人がいる一方、全く泣けない人もいるわけで。この違いは、観客が背負っている文化的バックグラウンドや個人の感受性や思想的ポジションなどが全く異なるからです。
押井監督はそれを「映画を観る人の知性と教養と人生経験の総和」と表現していますが、子供の頃には分からなかった映画を大人になって観返してみたら理解できた、ということは良くあるんじゃないでしょうか?もちろん、映画の中身が変化したわけじゃありません。「人生経験」を積んだことによって、自分自身の感性が変わったからです。
それと同じく、映画を観て「面白いか」「つまらないか」を決定づけるポイントは、常に”観客側”にあるんですよ。我々はつい、「映画の中に真実や正解がある」と思い込み、それが見つからなければ「意味がわからん!」「この映画つまんねー!」などと”映画側”に責任があると考えてしまいがちですが、実際はそうではありません。”正解”とは、「それぞれの観客が背負っているモノの中」に存在するのです。
僕が「映画だって教養や訓練が必要なんだ」って言ってるのは、そういうことなんだよね。「観て理解できないからその映画に問題があるんだ」と言う人たちがいるけれど、それはとんでもない話でさ。少しは我が身を振り返れよって話だよね。 (『スカイ・クロラ 絵コンテ集』より)
飛鳥新社
巻末に、押井監督が”映画の本質”について語り尽くしたロングインタビューがあって、これが非常に面白い。押井さん荒ぶってますw
●なぜ押井守は映画を撮り続けていられるのか?
さて、色々と押井守監督について書いてきたわけなんですけど、最後に残った疑問、「なぜ押井守は映画を撮り続けていられるのか?」。これ、正直よくわからないんですよね(笑)。確かに押井監督には多くのファンがいるようですが、それだけで映画の収支を賄えるものなのかな?と。
どうやら押井さんの作品は日本よりも海外での評価の方が高くて、日本で全く売れなくても、海外では結構売れているらしい。『アヴァロン』の場合、日本の興行成績はボロボロでしたが、海外でビデオやDVDがバカ売れして大ヒット。製作費が6億円もかかったのに、なんと黒字になったそうです。
押井監督本人は、「今まで色んな映画を撮ってきたが、赤字を出したことは一度もない」と豪語しているので、そういう点では映画会社から信頼(?)されているのかもしれません。まあ、僕自身は押井監督の実写映画を観て「面白い」と感じたことはほとんど無いんですけど、それは押井さんに言わせると「知性と教養と人生経験が足りないからだ!」ってことなんでしょうねえ(笑)。